昭和四十八年十二月三十日 朝の御理解
御理解 第三十六節 「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあ           まりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人           が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談           に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければ           ならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心           を出すと、すぐおかげが受けられる。」
 皆さん、朝参りでもして信心の稽古をなさっている皆さんには余り必要ではない感じの御理解ですね。
 皆さんがどこどこへお参りしたり、どこにもお願いしたと、いうような方はまずおられないと思うからです。そういうことをここでは教えておられると思うです。
 決して外の神や仏を見かぎったり、侮ったりしてはならない。そのこともはっきり教えでおられますけれども、頼むというたらここ一心にならなければならないということでございます。
 一寸考えますと神様がござるとするなら、どの神様にでもお願いしとった方がおかげ頂きそうにありますけどね、そこのところにやはりその信じると申しますか、あんまりあっち頼み、こっち頼みすると責任を持って世話をするというものがなくなるように、やっぱり頼むならやっぱり一人、あなた一心ということにならなければならない。それを例えば、なら、家を建てるにも棟梁がなからなければという意味の事を教えておられるわけですね。
 まあ、皆さんここはわかりすぎるくらいわかっておられると思うです。ところが、成程、神様やら仏様にはお願いしないけれども、外のものに頼る、縋る。
 体がどうかある時にはもうすぐに薬に縋る。それが頼んじゃならんとか薬を飲んじゃならんとか、医者に頼っちゃならんという事ではない。
 一つの根本のところなんです、根本のところがあなたのおかげを頂かねば、あなたのお世話にならなければ出来ることではないんだという、この一心がしっかりしているかしていないかという事なんです。
 一つの事件を誰々さんに頼む、神様にお願いして頼む。それが無事解決した。こちらはなかなか、さばけちゃるから、その人の方にはお礼を一万ならば一万円も持って行くと。そして神様の方には千円でしまえる。それではちょっとおかしいでしょうが ほら、あちらの病院の先生のおかげで助けてもろうたから、病院代は十万も払うといてから、神様には一万円ではおかしいでしょうが。こういうところがですね、はっきり一心に定めとくと、それが出来るんです。
 せめてものといったことが出来るんです。これは私の当初の信心の頃、何人も従業員がおります。従業員の一番多く払っておる人の給料が神様への御礼でした。月末の それじゃとても、その気持ちをそれではとてもすまん。従業員の五人、十人位のことじゃない。神様の働いて下さるのは、いうなら、その当時私共は、いわゆる神様が御主人といったような頂き方をしておる時分。
 あのここへんをね、すっきりすることが一心と思うです。そこに、そういうところに一心を定めなければいけんです。そりゃもう、辛抱、辛抱してです、もうやっとかっと医者代が払われたと。
 お神様へ御礼を申し上げなければいけないのだけれども出来ない。それならは枯れ葉一枚でもよいけん一心のこもった枯れ葉一枚でなければいけないということなのです。金額とか高いということではない。その一心なんだ。
 そこで信心の稽古の一つの過程としてです、誰に頼る、誰に縋るということではなしに、いわゆるそれこそ神様だけにお縋りして行くという生き方が求められるわけです。そして神様の働きを充分にわからせてもらったところから、まあ薬とても神様の御恩恵を頂かなければ頂けないとわかって頂くならです、薬が例えば千円したならば神様に対する御礼もせめて千円はせなければ相すまぬという一心が立つのだ。
 さあ、年末ともなると、なら従業員にいろいろ賞与を出します。まあ、神様に対して賞与を上げるという意味じゃないけれども、これはどこまでも御礼なのです。
      ※      ※      ※      ※      ※ 昨日、・・・二、3日前、豊美達が夫婦で来とります。二十日が四神様の報徳祭が本当の帰幽日ですから、御親戚だけでまあ盛大な、式年の御祭りがありましたそうです。それで合楽教会としても、まあ親戚に連なる親戚のようになりますから、心ばかりの玉串料を御供えさして頂いとったから、それに対する御直会とか、又は忍び草なんか持って来ております。
 その中に金光家からこういうテ-プを頂いて来ておる。金光様のお言葉、これは、この正月元旦から三日間にわたってラジオで放送されるそうです。
 それを録音したものを持って来て頂いております。その中に金光様のお言葉としてです、例えば、家に日傭取りの方が見えたと。又お手伝いさんならお手伝いさんが見えられた、その時に御礼をさせてもろうたり、夜おそくなられると、お夜食の一つも出したり、又はお給金をお支払いするようにです、私共が一切のものにそういう心掛けがなからなければいけない。
 私はいつも眼鏡をかけておりますが、その眼鏡をかけるときからそれを放すときまでです、その眼鏡にお礼を言うておりますと、眼鏡にお世話になっておることを、眼鏡が物を言わんから、ですけれども、もしこれが物を言うとすなるらば、お礼を言えない取扱もお粗末にするならば、そこには良い働きが生まれてくるはずはないいうようなお話をなさっておられます。
 これは元旦にでも皆様も一緒に聞いて頂こうと思うんですけれども、その中にお詠がいくつもある。最後に私は全部忘れませんでしたけれども、日本の言葉、お世話になりますというのがあります。
 私はそれを聞くとお詠はもう大体それこそ、名人でおありになります。それはもう素晴らしい味わいがあるお詠でございますからね。お世話になります、日本の言葉と日本人はもう、いろいろと御礼、有難とうございますとか、お世話になりますとかいう、私共はそれこそ、眼鏡にも、眼鏡をかけている人は朝から晩までお世話になっておる。着物にお世話になっておる。もう、あらゆるものにお世話になっておる。
 それを現していかんと相すまんとこう、神様にこれ程しのおかげを頂いとるのですから、人間に賞与とお礼をいって賞与を出すように、やはり神様へ神様へ御礼をいわなければという一心が立ってきたら、ま、賞与という言葉では何ですけれども、まあ本当に一年中お世話になりましたという、賞与が出されなければその一心がおかげになる、そうだと思いこむことが一心なのです、思い込みなのです。
 この三十六節で頂くところはです、いわゆるあの仏様に頼む、神様に頼むといったような、いうなら信心とは何たるかをわからない信者にたいする、御理解であろうと思いますけれども、その底に流れておるところの一つの真理とでも申しますようなものを段々わからせて頂くと、今日私が申しまたようなところへなるかと思うのです。 草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すとすぐにおかげが受けられる。この神様のおかげを頂かなければ、天地の親神様の御恩恵に浴しなければ私共が生きることも、生活して行くことも出来ない、その事をです、昨日の御理解はもいっちょ底のところを頂きましたよね。
 難しい御理解でした。今日はそこのところの表面のところです。けどその表面のところでも、そのことが一心に思い込まれたら、神様のおかげを頂かなければ、生きることも生活さして頂くことも出来ないのだというところからです、生まれてくるのがお世話になりますといった事ではなかろうかと思う。
 そのお世話になりますということが形に表はれることが御礼ということになるのじゃないでしょうか。どうぞ。